2008-04-30(Wed)

相馬大作

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二戸市金田一にある、相馬大作演武場跡の写真です。

相馬大作の本当の名前は、下斗米秀之進と言います。

郷土の傑士といわれ、誇り高い人と言われています。
エピソードが詳しくかかれてありましたので紹介します。

長くなりましたので、続きのほうに置きました。



福岡(現二戸市)の南部藩士の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが兄が病弱であったため、兄が父母に、「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞き、脱藩して1806年江戸に上ったとされる。

江戸では、最初は夏目長右衛門に師事して武術を修め、次に平山行蔵に入門、兵法武術を学び文武とも頭角を現して、門人四傑の一人となり師範代まで務めるようになった。
父が病気と聞いて帰郷し、自宅で武家や町人の子弟の教育にあたった。
その時に、金田一に『演武場』を建てたという。


★事件が起こる
元々津軽氏(大浦氏)は南部氏の家臣(一族)であったが、初代津軽為信(大浦為信)は南部氏の後継者選定騒動の最中に1571年独立し、津軽と外ヶ浜地方を支配した。

さらに津軽為信は豊臣秀吉の小田原征伐に、当時の南部氏当主南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵され正式に独立した。このような経緯から南部藩は津軽藩に対し遺恨があった。

また、野辺地西方の烏帽子岳(719.6m)周辺の帰属問題で両藩が紛糾した際に、弘前藩は既得権益を積み重ね書類などを整備して仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はそれができなかったため、この地域は津軽藩のものと裁定された。

八甲田山山系を境界とするならば、この地区は盛岡藩の地区になるため、この処置は盛岡藩に不満をもたらした。これを檜山騒動という。(この騒動は相馬大作事件の107年も前の出来事である)。

さらに、1820年南部利敬が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。混乱の中、南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無冠であった。
対する津軽寧親はロシアの南下に対応するために北方警備を命じられ、従四位下に叙任された。

また高直しにより津軽藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては自分たちの家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、自分たちより上の地位にいることが納得できなかった。

秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。
これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現大館市白沢の国道7号線沿い。物語では矢立峠とされることが多く、物語の記述には沿うが、誤っている地点に現在立て札もある)付近で鹿角市花輪の関良助ら門弟4人と大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、仲間の密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。(物語の多くでは木砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らなかったし、小銃しか秋田藩に持ち込めなかった。)密告した人は後に津軽藩に仕官することになる。

暗殺の失敗により秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。
しかし、幕吏(実は津軽藩用人笠原八郎兵衛)に捕らえられ1822年8月千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年は34歳であった。

一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩し、また参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められた。
寧親は数年後、隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。事件から隠居までの期間、南部藩では当主替玉相続作戦などを行っていて、津軽どころではなかった。
しかし寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。


その後
当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。
事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、津軽藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。
実際は津軽寧親は普通に隠居し、その後は風雅を楽しんで暮らしている。

この事件は藤田東湖らに強い影響を与えた。
時15~16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』著した。

これらはさらに吉田松陰に影響を与える。彼は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ暗殺が成功したか地元住民にたずね、また長歌を詠じて秀之進をたたえた。

吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、南部、津軽両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。
ただ、松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。


南部藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士相馬大作を顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。
この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に預かろうと石塔を砕いてお守りにする人が後をたたなかったという。
黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。


妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。
また、秀之進の供養のために1852年10月、南部領盛岡に感恩寺が建立され、秀之進の息子(後の英穏院日淳贈上人)が初代住職となった。妙縁寺と感恩寺はいずれも日蓮正宗の寺院。
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